ローマはk日にして成らず
e野D(R1)といえば、古代ローマをWく『ローマ人の餮譟15巻(新潮社)を15Q間かけて書き屬欧真颪箸靴瑤蕕譴討い襦H獪の「文藝春秋」巻頭随筆が二冊の新書(R2)になって最Z出版された。古代ローマ人を15Q間も見け、ローマでのが40Q間にもなる彼の`から見た日本人に向けた随筆である。
そのk冊`の『日本人へ リーダー』に次のような文章がある。
『ローマ帝国も世紀に入ると、策のM性が失われたのである。的に言えば、皇帝がやたらと変わるようになった。そのk世紀iは五賢帝の時代でローマが最もW定し繁栄をe△靴討い神さだが、賢帝たちの在位期間は平均して二蚊Q。それが世紀に入ると、平均しても四Qになる。蛮が来してこないというようなm運にLまれたりすると、才Δ里覆す陳襪任WSでいられたから、世紀ローマの皇帝たちの実在位期間は、k人につき二Qと考えてよいと思っている。(中省S)
世紀に入ったとたんに、ローマのが弱化したのではない。経済が衰したのでもなかった。これらは、後になってってくる現である。皇帝の交代がしく、在位期間が]く、それゆえに策のM性も失われることによるの浪JのT果として、擇泙譴討た現なのである。
策のM性のL如こそが世紀のローマ帝国にとって、oKの根源であったのだった』。
この文章は、日本の指導vがころころ変わることに瓦垢諷e機感を述べたものであるが、筆vはわが国の電子機_噞に瓦靴討眛韻後e機T識を感じている。単に経営vがk期二Qで交代するとか不祥で任期の中で交代するとかいうことだけではなく、経営としての戦Sや業戦Sなどにk椸がLけていることに瓦垢諷e機感である。頭の良い人たちがl筆をiめiめその時々に都合のよい絵をWいているeが`に浮かぶのである。
O分の出身企業の例で贔屓(ひいき)の引き倒しにならないことを願いながら、kつの例としてシャープを挙げさせてもらう。現在、シャープのjきな業で、k般的にもh価の高いものとして]晶テレビと陵枦澱咾竜業がある。しかし、これらの業は思いきだけでパッと出来屬ったものではない。
]晶ディスプレイの例では、1964QにRCA社がDSM (Dynamic Scattering Mode)]晶を発し、1968Qに]晶クロックをプレス発表したことで世c中が]晶ディスプレイの開発に到した。シャープの佐々v(当時は業霙后後に副社長)は電Rの表素子に適していると判し、直ぐにRCAへ行ってOEM供給を依頼した。しかし、動作]度がく電Rの表素子には向かないとられた。
この報告を聞いた和田富夫(後にディスプレイ業霙后∫]晶研|所長)はO社開発を主張し、RCAの了解をuて1970Q9月に和田をリーダーに8@で]晶プロジェクトを開始した。1グラム12,000で入}した]晶材料をjにjに実xを進めたが、RCAと同じ直流~動で実xすると電気化学反応で直ぐに使い颪砲覆蕕覆なった。この時、Iも味気靴馴`田文(後にディスプレイ\術開発副本霙后砲イオン添加剤を加えた交流~動擬阿1971Q暮れに発し、DSM]晶の実化にOをいた。1973Q6月に世c初の]晶表電R「EL-805」を商化し、]晶パネル量僝に成功した実的に世c初の企業となる。今からちょうど40Qiの和田の執念が、シャープだけに限らず現在の]晶ディスプレイ噞の礎になっている。
シャープが陵枦澱咾慮|開発にDり組んだのは]晶よりも早く、今から51Qiの1959Qのことである。1963Qに単T晶陵枦澱咾領名僝に成功し、1966Qに長崎県_iに当時の世c最j225ワットの陵枦澱咼皀献紂璽襪鮴。1967Qには宇宙陵枦澱啌発に}し、宇宙豢研|開発機構の国内唯kの認定メーカーとなって1976Qに実ナ星「うめ」の陵枦澱咾箸靴禿觝椶気譴拭1994Qに住畸陵杆発電システムを発売。業として寄与し始めるのは研|開始から約40Q後のことであった。このようにlっこくlっこく地Oに研|開発してこそ本当の}が開くことを瑤辰討い燭世たかった
R1) 1970Qイタリアへ―察ローマ@誉xcを経てイタリア人とT、後に`。その後イタリアP住権をuてローマ在住。92Q〜2006Qに『ローマ人の餮譟15巻(新潮社)をQk冊のペースで執筆。07Q文化功労v。
R2) e野D效『日本人へ リーダー』(2010Q5月19日、文春新書)(「文藝春秋」03Q6月。06Q9月、隆頭随筆)、『日本人へ 国家と歴史』(2010Q6月17日、文春新書)(「文藝春秋」06Q10月。10Q4月、隆頭随筆)。